海辺の町、黄昏どき。
陽が沈みきる前のひととき、風がぴたりと止まる瞬間がある。
その時間帯を、この町の人たちは「夕凪」と呼んでいた。
人通りの少ない堤防沿いに、小さなカフェがある。
看板は古びているが、海風と時間のせいでそれが妙に味になっていた。
そのカフェの名は「Sea you」。
“またね”の意味と“海で会おう”を掛けた、少しだけ洒落た名前だ。
店内にはジャズが流れていて、席は4つしかない。
そのカウンターに、穏やかな目をした店主――澪(みお)が立っていた。
年齢は30代半ば。海の見えるこの店を始めてから、もう5年になる。
■
その日、店に現れたのは、スーツ姿の青年だった。
ネクタイは少しゆがみ、ジャケットには潮風が染み込んでいた。
「……やってます?」
「ええ、ちょうど夕凪が来る頃ですし」
澪はやわらかく笑って、席を指差した。
青年は言葉少なに座り、メニューも見ずに言った。
「ホットで、なんか苦いやつ」
「ブラックコーヒーでいいかしら?」
「はい」
それきり会話はなくなった。
だけど澪は気にしない。こういう空気の客は、たまに来る。
コーヒーを淹れる間、青年の横顔を見ていた。
どこか張り詰めていて、息をするのが下手な人の顔だった。
「どうぞ」
マグカップを出すと、青年は小さくうなずいた。
一口飲んで、ふぅっと息をついた。
ようやく、何かがほどけるように。
「この町、5年ぶりです」
彼がぽつりと漏らした。
「懐かしい場所?」
「……いや。母の葬儀以来で」
その一言に、澪は手を止めた。
だが、すぐにふわりとした声で返す。
「そうでしたか。……よく戻って来られましたね」
青年は、驚いたように顔を上げた。
その目は、いくぶん潤んでいた。
「逃げてました。父とも姉とも縁が薄くて……母の死も、どこか他人事みたいで。
でも最近、会社辞めたんです。いろいろあって。
気づいたら電車に乗ってて、気づいたらこの町に来てました」
「心が勝手に、来たがったのかもしれませんね」
「……そんなこと、ありますか?」
「人って、意外と無意識に素直ですよ」
カップの中の液面が、夕焼けの反射でほんのり赤く染まる。
澪はカウンター越しに棚を指さした。
そこには、たくさんのマグカップが並んでいた。どれも少しずつ違う形と色。
「お客様が置いていったものです。記念とか、区切りとか。
名前は書かないけど、誰がどれを置いていったかは、だいたい覚えてます」
「……変わった店ですね」
「でしょう?」
青年は、苦笑した。さっきまでの空気が少しだけやわらぐ。
「僕も、何か置いていけるでしょうか。
なにも成し遂げてないし、人生いったん崩れたとこだけど」
「そういう人が置いてくカップの方が、あたたかかったりしますよ」
澪はマグカップを棚からひとつ取って、青年の前に置いた。
「持って帰っても、置いていってもいいです。
どちらにしても、“また”があると思えば、ね」
青年はマグカップを見つめ、しばらくして小さくうなずいた。
「名前、伺っても?」
「伊坂(いさか)です。伊坂陽(よう)」
「じゃあ陽さん、このマグは“陽が沈む前に来た人のカップ”ですね」
ふたりは、ふっと笑った。
風が一瞬、店のドアを揺らす。
夕凪が、終わる。
■■
伊坂はその日、カップを棚に置いて帰った。
次に来られるかもわからないけど、「また」を信じたくなったのだ。
澪はそれを見届けて、カウンターの奥に戻る。
陽が沈みきる少し前、最後の光がマグカップの縁に反射していた。
店内には、相変わらずジャズが流れている。
カップは静かに棚の中で、誰かの人生の一瞬を、静かに預かっていた。
【あとがき】
「夕凪のマグカップ」は、
止まりたくなった時、そしてまた歩き出すきっかけが欲しい時に立ち寄れる、
そんな“心の居場所”を描いた物語です。
何も成し遂げていなくても、
うまくいっていなくても、
自分を誰かに肯定される場所があるとしたら――
それが、ほんの少しでも救いになればと願って。