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キャラクター4人に書いてもらった記事や趣味について掲載します

風鈴をしまう日

九月の初め、午前の空はまだ夏みたいに白く明るいのに、風だけが薄く冷たくなってきた。
ベランダに吊るしたガラスの風鈴が、からん、とひとつ鳴って、それきり黙った。音の余韻のほうが長く残る。
私は椅子を引き寄せて、風鈴の紐に指を掛けた。結び目の固さが、七月の熱の名残をまだ少し持っている。

外す時はいつも迷う。まだ早い気もするし、もう遅い気もする。でも、今日は「しまう日」だと朝から決めていた。
窓の外、通りのイチョウの並木に、ほんの少し黄が混じってきている。信号待ちの自転車のかごには、スーパーの袋と秋刀魚の尾。
どこかの台所から、生姜と醤油の匂いが風に乗ってやってきて、夏の空気と混ざって少しだけ喉がすっとした。

風鈴を外す前に、一度だけ鳴らしておく。
指先で舌を軽く弾くと、薄い音が部屋の隅まで転がっていった。私は息を吸って、紐を解いた。
風鈴は掌に収まると急にものになり、さっきまで空気の一部だったのが嘘みたいに重さを持つ。箱に戻すと、蓋の紙がかすかに鳴った。夏、またね。


昼すぎ、商店街へ出た。
乾物屋の軒には、秋の豆と新米の幟が増えた。氷の旗はまだ下がっているけれど、列はできていない。
魚屋の前は涼しげで、氷の上にサンマが並んでいる。銀色の胴が光っていて、尾がすっと伸びていた。
「今日のは脂がのってるよ」と店主が言い、隣の主婦がうんうんと頷いた。

角の文房具店の横を抜けると、狭い空地で近所の子どもたちが走り回っていた。
ランドセルの色がやけに鮮やかに見える。夏休みが終わって、それぞれが少し日焼けした顔で、大声で笑い合っている。
砂ぼこりが上がるたびに、空地の隅の彼岸花が揺れた。赤い花びらの形が、何度見ても現実っぽくなくて、子どもの頃は怖かったのを思い出す。

この商店街のはずれに、小さな修理屋がある。昔は時計ばかり並んでいたが、最近はスマホのバッテリーや家電のコードも置いてある。
引き戸を開けると、鉄と油の匂い。カウンターには、手の綺麗な老店主が座っていた。

「こんにちは」
「おう、久しぶりだね」

私は紙袋から古いラジオを出した。祖父の形見のやつ。
夏の間、ベランダで夕涼みする時に時々つけると、どこか遠くの野球中継が入ったり、聞いたことのない演歌が流れたりした。
昨日、ダイヤルが固くなって動かなくなった。秋になる前に直しておきたかった。

店主は手のひらでラジオを転がし、耳に当て、指先でつまみをひねった。
「中の油が乾いてる。分解して一回掃除すりゃ戻るよ」
「時間、かかります?」
「明日取りにおいで。うち、秋は早じまいだからね」

私は頷き、代金を置いて店を出た。
外に出ると、空はさっきより青が増していた。
商店街の先、川べりのほうへ歩くと、風が広く回る。堤防の草が一斉に揺れて、鈴虫の音が昼でも聞こえた。

川沿いのベンチに座って、ペットボトルの麦茶を飲んだ。
斜め向かいのベンチでは、作務衣姿のおじいさんが金木犀の小さな枝を一本持ち、鼻に近づけてはゆっくりと遠ざけていた。
まだ咲き始めにも程遠い硬い蕾なのに、目を細めている。たぶん、去年の匂いを思い出しているのだろう。
私も鼻先で風を嗅いだ。ほんのり、土の匂い。夏の熱が薄まって、香りが拾いやすくなる季節。


夕方になると、町内放送のスピーカーから運動会の練習らしき太鼓が遠くで鳴った。
ベランダに小さな竹の鈴を吊った。風鈴の代わり、秋の音。
ガラスの透ける音ではなく、ころころと丸い。空気に溶けるより、木に吸われて戻ってくる感じの音。

台所で米を研いでいると、スマホが震えた。
「今夜、空いてる?」というテキスト。高校の同級生の真理子からだ。
駅前の喫茶店に新しい季節のパフェが入ったらしい。彼女はそういう情報が早い。

「行く」と返すと、すぐに時間と場所が決まった。
窓の外を見ると、いつの間にか空に一番星が出ている。
洗濯物を取り込み、薄手のカーディガンをかけた。


茶店の扉を開けると、コーヒーの香りがふわりと来た。
真理子は奥の席で手を振る。テーブルには栗のパフェが一つ、チョコレートのアイスが一つ。
彼女は甘いものを人と分けるのが苦手だが、私とは平気で半分こする。

「風、変わったよね」と真理子。「今朝、窓開けたら肌がひやってした」
「風鈴、しまった」
「うちも。代わりに母が木の鈴出してきた。カラコロ鳴るやつ」

二人で笑った。
窓の外の街路樹が、夜風に揺れている。店内の音楽は少しだけボリュームが落とされ、グラスが触れる音がよく聞こえた。
真理子は新しい仕事の話をし、私は修理屋のラジオの話をした。

「秋になると、音がよく聞こえる気がしない?」と私。
「分かる。匂いもね。金木犀、今年は早いって」
「待ってる人が多いから、いつもよりきっと強く香るよ」

帰り道、駅のホームで風が吹き抜けた。
ぶわっと髪が揺れて、シャツの裾が浮くほどの強さ。でも、寒くはない。
秋の風は、熱を奪いはするけれど、責める感じがない。
ホームに入ってきた各駅停車のドアが開くと、車内の空気は夏で、外の空気は秋で、境界に立っている自分が少し可笑しかった。


家に戻ると、竹の鈴がころん、と鳴った。
部屋の灯りをつけると、影が柔らかい。
私はラジオの代わりに古いCDプレイヤーを出し、父が好きだったジャズのアルバムをかけた。
サックスの音が低く部屋に回る。夏は窓の外に音が逃げていったけれど、今は壁に落ちて、返ってくる。

キッチンで秋刀魚を焼いた。グリルの中で脂が弾ける音。
小皿に卸し大根をのせ、レモンの汁を絞る。
一口目の熱に舌が驚いて、目を閉じる。秋の初回は、毎年ちょっと涙腺に来る。
テレビを点けると、ニュースは台風の進路を示していた。
今年は北へ逸れるらしい。それでも、風は何度か強くなるだろう。

食後、ベランダに出る。
空は、星がいつもより近く見えた。空気が乾いて、音も光も遠くまで届く。
遠くのマンションのベランダで、誰かが洗濯物を取り込んでいる。反対側の棟の一室では、学生らしき影がギターを抱えている。
竹の鈴が、ひとつ鳴って止んだ。

私は風鈴の箱を押し入れにしまって、ふと、その上に置いてあった文庫本を二冊取り出した。
どちらも夏の小説だ。
高校の夏に読んで泣いたやつと、大学生の時に友達から借りて返しそびれて、そのまま私の本棚に落ち着いてしまったやつ。
背表紙を撫でると、紙の粉っぽい匂いが立つ。
夏が終わると、読み返す勇気が出る。暑さから逃げずに読めるからかもしれない。

ページを少し開いて、閉じた。
今夜は眠ろう。明日はラジオが元気になって戻ってくる。
修理屋の店主は、秋のはじめに仕事を早く切り上げて、川べりで風に当たるらしい。去年、そんな話をしていた。


翌日。
修理屋の引き戸を開けると、ラジオはもうカウンターの上に置かれていた。
店主は「油が乾いてただけだ」と言い、つまみを軽く回して見せる。
指のわずかな動きに合わせて、周波数の針が滑らかに右へ左へ。
私は支払いを済ませ、ラジオを抱えて店を出た。

帰り道、空は薄曇りで、風が匂いを運びにくそうにしていた。
でも、商店街の角を曲がると、突然ふわりと甘い香りがした。
金木犀だ。
誰かの庭先の木が、気づかれないうちに咲き始めていた。
香りは一瞬強く、一瞬で遠ざかる。追いかければ逃げる。
私は立ち止まり、そこで深く息を吸った。

家に着いて、ラジオのスイッチを入れる。
ダイヤルを回すと、若いアナウンサーの声が部屋に満ちた。
「……各地で金木犀の開花が平年より早まっていて――」
私は笑って、音量を少しだけ下げた。
竹の鈴とジャズとラジオの声が、同じ部屋でうまく共存した。
窓の外では、通学路をランドセルが流れていく。
どの子も、まっすぐで、まばゆい。

ベランダの隅で、風鈴の箱が静かに秋を見ている。
また来年。
きっとまた、熱に負けて、音に救われる夏が来る。
今はこの丸い音と、乾いた空気と、夜に近づくのが早い夕暮れを受け入れていこう。

私は台所でお茶を淹れ、カップを両手で包んだ。
湯気の向こうに、たしかに季節の境目が揺れている。
それはさっきしまった風鈴の音よりも薄く、けれど確かで、私の中の「次へ」を静かに照らしていた。