十一月のはじめ、空は一段と低くなって、夕方が急ぐように早くやってくる。
川沿いの欅は七分ほど色づき、歩道には乾いた葉が薄い絨毯を敷いていた。靴の裏で踏むたび、紙のような音がする。息はもう白くはならないが、胸の奥に入ってくる空気は冷えている。
駅から坂道を下りきった角に、あかり書房という古い店がある。
外から見ると喫茶店に見えるが、正しくは古本と珈琲の店。窓辺に積まれた背表紙の横で、ペンダントライトが小さく丸く灯って、夕暮れの水面みたいな反射を作っている。
私は仕事帰り、その灯りに吸い寄せられるみたいに扉を押した。
ちいさなベルが、カラン、と鳴く。
焙煎の香りと紙の匂いが混ざって、喉から鼻にかけて温度が変わる。
奥のカウンターには、店主の男性――白髪交じりで、丸い眼鏡の縁を指で上げる癖がある――が立っていた。彼は私の顔を見ると小さく頷いた。
「こんばんは、冷えますね」
「こんばんは。ケニア、まだあります?」
「ええ。深めでよければ。今夜はそのほうが合う」
コートを脱いで、いつもの窓際の席に座る。
店の外、街路樹の向こうをバスが一台ゆっくり抜けていった。
ガラス越しに見える人々は、肩を落とし、首をマフラーの中に隠して歩いている。季節が進むほど、歩幅は自然と小さくなるらしい。
コーヒーが来るまでの間、私は書架からランダムに一冊抜き取った。
背表紙は色褪せ、表紙には見覚えのある紅葉のシルエットが印刷されている。散文の短いエッセイ集。
ページを指で弾くと、紙は夏より乾いていて、指の腹に確かな抵抗を返してくる。秋はとにかく、触れるものの手触りが変わる。
「お待たせ」
店主が置いたカップから、湯気が静かに立った。
一口飲む。苦みの向こう、黒糖と柑橘の間みたいな甘さがある。喉を落ちて、胃の奥で灯りがひとつ点くみたいな感覚。
思わず、目を閉じた。
ベルがもう一度鳴いた。
入ってきたのは、二十代の青年。リュックに細い傘を挿し、手には布張りのノート。
一瞬きょろきょろしてから、レジ前に立つ。
「すみません、予約していた詩集、届いてますか」
店主が奥の棚から包みを取り出す。青年は両手で受け取り、安堵の息をした。
「寒くなると、書きたくなるんです」青年は照れたように笑う。「音がきれいに聞こえる季節だから」
「いいですね」店主が応じる。「コーヒーは?」
「いただきます。浅めで」
青年は私の斜め前の席に座り、包みをそっと開いた。
手帳を開いてペン先を走らせる。
肩の動きが、ひどく静かだ。
耳を澄ますと、紙の上を滑るペンのさやさやという音と、換気扇の低い唸り、時々ミルが豆を砕くときの錆びた鈴のような音――それだけが世界だ。
秋の深まりは、音から始まる。
窓の外、見慣れた女性が足を止めた。
真理子だ。薄いキャメルのコートに、深緑のマフラー。扉を開けて、彼女はふわりと笑った。
「いると思った」
「いると思った、はずるい」
「ここ、灯りが良いからね」
私たちは視線で合図して、向かい合わせの席に座る。
真理子はミルクティーとアップルクランブルを頼み、私はコーヒーのおかわりをお願いした。
「最近どう?」
「忙しい。けど、悪くない。あなたは?」
「私も、悪くない。秋は、悪くなりづらい」
「分かる」
彼女はアップルクランブルの上のアイスを、スプーンでそっと割って中に沈めた。
温かいものと冷たいものが接して、湯気と香りがいっしょに立ちのぼる。
鼻にくるのは、シナモンと焼きりんご。
秋は香りに輪郭が出るから、記憶に残りやすい。
「この前の『風鈴しまう日』の話、読んだよ」
真理子は笑って言った。「すごく良かった。匂いがした」
「ありがとう。ここ、書くのにも向いてる」
「知ってる。あなたがいる時間、だいたい当たるもん」
ふいに店の奥のラジオが、ボリュームを下げた音でニュースを読んだ。
“明日から気温が下がって、北の山では初雪の便りが……”
コーヒーの香りの向こう側で、冬が小さく手を振っている。
扉が開いて、冷たい空気がひと口ぶん入ってきた。
今度入ってきたのは、年配の女性だった。黒のウールのコートに、薄いベージュの手袋。彼女は店主に言った。
「ねえ、ここで写真展をしていた方、最近いらっしゃる?」
店主は眼鏡の位置を直し、少し首をかしげた。「先月お見えになってからは、まだ。どうされました?」
「お別れをね、言いそびれちゃったの。引っ越されるって前に聞いていたのに」
女性はカウンターに手を置いて、少し肩を落とした。
店主はうなずき、黒板の端に小さく貼られたポストカードを指さす。
そこに写っているのは、夕暮れ時の河川敷、並ぶ影と長い赤。
私はその赤を見て、虫の羽音みたいに胸の奥がざわりとした。秋の夕方には、理由の分からないざわめきが良く似合う。
真理子はカップを両手で包んでいた。
「ねえ」
彼女はいつになくゆっくり言った。「来月、引っ越すかもしれない」
「……遠く?」
「会社の異動。海の近く。悪くない話だと思う。けど、ちょっとこわい」
私は頷いた。
カップの縁に息を吹きかける。
こういう時、人は励ますべきなんだろうけど、励ましより先に、音や匂いの記憶が立ち上がる。
海の匂い。冬の風。金物が冷たくなる感じ。
「いつ決まるの?」
「来週。だから、たぶん、来られるうちに、来てる」
彼女は笑って、クランブルを一口食べた。
甘いものを噛みしめる時、人は子どもみたいな表情になる。
私はそれを見るのが好きだ。守りたいというより、分かち合いたいに近い。
青年はノートから顔を上げ、窓の外の闇に視線を投げた。
彼の耳に掛かった髪が、薄く光った。
ページの角が、ペンダントライトの灯りを受けて金色に縁取られている。
その光景が、私の中の何かを静かに揺らした。
書くことは、灯りの下に座ることだ。暗い季節ほど、灯りが意味を持つ。
「もし行くなら」私は言った。「向こうで美味しいコーヒーの店を見つけて。私、遊びに行くから」
「うん。絶対見つける」
「灯りが低い店がいいよ」
「分かる。低い灯りは、落ち着く」
店主がカップを磨きながら、ふと口を開いた。
「冬になるとね、豆を深く焙る分、部屋に残る香りも長くなります。夏は窓を開けるからすぐ抜ける。秋は、香りが居座る」
「居座る」真理子が繰り返した。「いい言葉」
ラジオはいつの間にか音楽に変わって、アコースティックのギターが淡い旋律を繋いでいた。
私はカップの底を覗く。丸い影がそこに沈んでいる。
秋の深まりは、影が濃くなることでもある。
でも、影が濃いほど、灯りは輪郭を持つ。
外はすっかり暗くなり、窓の向こうのバス停には数人の列が見えた。
みんな指先をポケットにしまっている。呼気はまだ白くない。
明日には、白くなるかもしれない。
そういう予感のある夜は、胸の奥が少し弾む。
季節が一歩進む瞬間を、目撃できるから。
「ねえ」真理子がまた言う。「あなたの好きな秋の匂い、何?」
私は少し考える。「初めの金木犀より、終わりかけの金木犀」
「分かる。甘さの後の渋みみたいなの、ある」
「そう。あと、濡れた本の匂い。雨の日の古本屋」
「最高」
青年が会計をすませて立ち上がり、私たちに軽く会釈をして店を出た。
扉のベルが鳴って、冷たい空気が一杯ぶん入ってくる。
その空気が去ると、店の中はより暖かく感じられる。
出入りする寒さが室内の温度を確かにする――秋は対比で出来ている。
私は鞄から小さな封筒を取り出した。
中には、午前に現像所で受け取ったばかりの写真が数枚。
ベランダに吊るした風鈴、竹の鈴、カップの縁、ラジオのダイヤル、欅の落ち葉――どれも日常の断片。
真理子が身を乗り出して覗き込み、「いい」と短く言った。
彼女の「いい」は、だいたい信用できる。
「引っ越したらさ」私は言った。「向こうの“秋の始まり”を一緒に撮ろう」
「うん。あなたの“灯りの写真”、好きだから」
「灯りの底まで写るといいな」
「きっと写る」
店を出る頃には、夜気はさらに冷たく、鼻の奥が少し痛かった。
真理子と駅まで歩く。
足元の葉を踏む音が、二人分重なる。
交差点の角で別れ際、彼女はマフラーの端をひと巻き足して、指先を振った。
「また来週」
「また来週。どっちに転んでも、ここで」
私が一人で川沿いを歩くと、遠くで踏切が鳴った。
線路の向こうに、低い家並みの窓が点々と灯っている。
あの灯りのひとつひとつに、湯気の上がる鍋があり、湯呑があり、柔らかいブランケットがある。
誰かの夜が、おだやかに始まっている。
家に戻ると、窓の外の欅が暗闇に融けて、葉の輪郭だけがわずかに見えた。
私は灯りを低めにして、ラジオをつけた。
ダイヤルを回す指先の感触が、昼間より心もとない。季節が深まると、ものに触れる手つきが慎重になる。
チューニングが合うと、遠くのスタジオから静かな声が届いた。
温かい声だった。
声も、灯りだ。
カップを手に、窓辺に座る。
外気は冷たいが、窓ガラスはまだ結露しない。
私は自分の息で、ガラスの一角を曇らせて、そっと指で丸を描いた。
丸の向こうに、小さな灯りがまた一つ、点いた。
秋が深くなるほど、世界は静かになり、音は近くなる。
足音、ページをめくる音、カップの触れる微かな音。
それらが重ねられて、今夜の私の部屋の「音楽」になる。
私はその音に包まれながら、明日の冷え込みの予報を思い出した。
マフラーを出しておこう。手袋も洗って乾かす。
季節の支度は、未来の自分へのささやかな贈り物だ。
ラジオが曲に切り替わった。
小さなギターの音が、部屋の隅々に触れていく。
私は目を閉じ、灯りの底まで沈むように深く息をした。
その呼吸の温度で、秋の夜が、少しだけやわらかくなる。
――明日の朝、外気はきっとひとつ冷える。
それでも、灯りはある。
それを確かめるために、私はまた、あの店に行くのだろう。
