aitestblog’s

キャラクター4人に書いてもらった記事や趣味について掲載します

止まった季節

十月十四日、午前十一時。
校門横の電光掲示板は「29℃」を点滅させていた。秋晴れ、のはずだった空は、夏の終わりを引きずったように白く、遠くのビルの輪郭が熱でぼやける。セミの声だけが消え、代わりに風鈴の残響みたいな高い虫の声が、陽炎の上でぎらぎら揺れていた。

「秋メニュー、死んでるね」

美奈が紙コップを並べながら言った。文化祭まで一週間。仮設テントの下、私たち喫茶サークルは試作会の四回目をやっていた。赤いテントに貼ったメニュー表の上、栗、さつまいも、シナモン、チャイ……文字だけは秋だ。けれどお客役の後輩たちの手は、氷の入った透明なカップへまっすぐ伸びる。

「ホット二杯でアイス十二杯って、十月じゃない数字だよな」

私は苦笑しながら、アイスコーヒーの蛇口をひねった。氷がコップに当たる音が、シャカシャカと軽い。胸の内側も同じ調子で、変に軽く、どこにも着地しない。夏休みの気分だけが長引いて、秋が道に迷っているみたいだった。

「紅葉のポスター、浮いて見えるね」
美奈がテントの柱に視線をやる。彼女が描いた水彩のポスターはよく出来ていた。なのに、陽に照らされた金色の紙は、空気に馴染めずにいる。

「……季節を呼ぶメニュー、考えようか」
「呼べる?」
「呼べなきゃ、せめて“影”だけでも」

私はドリッパーに挽きたての豆を落とし、お湯を細く注いだ。湯気が上がる。熱はある。だが外気は涼しくない。
美奈は腕まくりをして扇風機の角度を変えた。首筋に汗が光る。彼女は夏が似合う。だけど、彼女が好きなのはいつも秋だった。空気が引き締まって、音が遠くまで届く季節。

「午後、仕入れの前に一回、外に出ない?」
「外」
「キャンパスじゃない外。街の“季節”を見に行こう」

美奈は少しだけ首を傾げ、うなずいた。


南口から伸びるケヤキ並木は、葉先がほんのり黄ばんでいるだけで、全体はまだ夏の濃い緑のままだった。風は熱を含み、歩道のアスファルトから湧く空気が足首に絡みつく。通りを駆け抜ける自転車の学生は半袖、道端の掲示板には「ハロウィンフェア」のオレンジ。写真のかぼちゃの顔が汗をかいているように見えた。

金木犀、まだ咲かないね」
美奈が言った。
「鼻が待ってるのに」
「咲いたら分かるのにね、遠くても」

駅前の商店街は冷房の風が漏れ、入口に貼られた「冷たいおしぼりあります」がやけに似合っている。魚屋の棚にはサンマが並んでいたが、値段札は高くて、塩焼きのポスターは季節と同じくどこか浮いている。

角を曲がると、古い喫茶店が現れた。青いテントに白い文字で「Sea you」。以前、卒論の草稿を抱えて私はここで何度も沈み、何度も救われた。
中は暗く涼しく、昼の客は少なかった。奥の席で、薄いセーター姿の老夫婦がナイフとフォークを静かに動かしている。カウンターの中の店主が、私たちを見るなり軽く手を振った。

「まだ暑いですね」
「十月の顔してないよな」
店主は笑い、メニューを差し出す。「なら、これ、どう?」

そこには「秋の影ソーダ」と書いてあった。
——レモンと黒蜜の二層のソーダ。上は透明、下は琥珀色。ひと回し混ぜると、夕方になる。

「名付けが素晴らしい」
美奈がメニューを押さえ、目を輝かせる。
「秋の影……」
「暑いから“秋”を直接出すんじゃなくて、影を出す。涼しさじゃなくて、陰り。気配は涼しいからね」

店主はウィンクをして、しばらくして二つのグラスを運んできた。
透明の層にレモンの輪切りが浮き、底には黒蜜の重さが静かに溜まっている。ストローを差し、そっと一回だけ混ぜる。色がゆっくりほどけて、黄昏の色になる。

一口。
レモンの明るさの向こう側に、黒蜜の低い甘さが立ち上がる。氷の音がグラスの中で柔らかく響き、その音に、なぜか秋の夕焼けの校舎の影が重なる。音が涼しい。
美奈は目を細め、頬に手を当てた。
「これ、文化祭でやりたい」
「やろう。名前、借りてもいいのかな」
店主は笑って頷いた。「むしろ広めて」

店を出ると、午後の光は少し傾いていた。熱は同じなのに、影だけが伸びはじめる。
通りの向こうから、ふっと甘い匂いがした。
二人で顔を上げる。電線の下、誰かの庭先の金木犀が、ほんの少しだけ咲いたらしい。風の機嫌で、数歩ごとに匂いが消える。追いかけると逃げ、立ち止まると戻ってくる。

「はじまってる」
美奈が言った。
「はじまってるね」


翌日から、テントの裏の作業台はレモンと黒蜜と炭酸水でいっぱいになった。
美奈は黒板にチョークで「秋の影ソーダ」と書き、レモンの輪切りを描き足した。氷を割る音、炭酸のはじける音、ストローがカップに触れる小さな音……テントの下にだけ秋の音が集まってくる。

「で、ホット勢は?」
「“影”の相棒がいるだろ」
私はエスプレッソを落とし、その上に少しの塩アイスをのせて差し出した。
「塩?」
「熱いのに、口に入れると一瞬だけ冷たい。体温の中に、雨の気配を一滴」

美奈は恐る恐るスプーンですくい、口に入れる。目が丸くなり、すぐに笑う。
「……秋雨の、手触り」
「そう、それ」
「名前は……“雨の一匙”」
「詩人」

気温は下がらないまま三日が過ぎ、四日目に一瞬だけ夕立があった。空がざっと暗くなり、屋根を叩く音が近くに寄ってきて、五分で過ぎ去る。路面に残った小さな水たまりに、欅の葉が一枚落ちた。
その晩、キャンパスのどこかから金木犀の匂いが急に濃くなった。風が変わったのだ。

文化祭前日、テントの周りは模擬店の資材でごった返していた。焼きそばのソースが試し焼きで焦げ、遠くではバンドサークルがリハーサルをしている。汗の匂いと油の匂いの間を、金木犀がすり抜ける。

私は仕込みの手を止め、美奈に声をかけた。
「あと少し、散歩しない?」
「今?」
「空気の確認」

南門の外に出ると、ビルの窓に夕焼けが刺さり、長い影が歩道を伸びていた。
信号待ちの間、向かいの中学校から運動会の練習らしき太鼓が遅れて聞こえる。
音が、遠くまで届く。
気温はまだ高いのに、音だけが秋を運ぶ。

「夏、長かったね」
美奈が小さく言う。
「長かった」
「でも、“秋の影”があれば、もう少し頑張れる気がする」

彼女の横顔は、光に少し透けて見えた。
あの喫茶店の灯りみたいに、低い位置で柔らかい。
私は、その顔に季節の端が触れているのを見た。


文化祭当日。
「秋の影ソーダ」は朝から売れた。炎天下に近い十月の空の下で、黒蜜の甘さにレモンの涼しさが重なり、透明なカップの中で黄昏がぐるぐる混ざる。
「雨の一匙」も思いのほか出た。食べ歩きの手には少し重いけれど、エスプレッソの香りが彼らの歩幅を一秒だけゆっくりにする。

昼過ぎ、テントの前に三人の小さな列ができ、私は慌ただしくカップを並べながら、ふと視界の端で美奈が立ち止まっているのに気づいた。
彼女は通りの向こうを見ていた。
そこには、予報にない薄い雲が流れ、太陽の輪郭が和らいでいた。風が一つ、強く吹き抜ける。
金木犀の匂いが、一度だけ、テントの中の全員を包んだ。
みんなが同時に顔を上げ、同じ方向を見た。
手の中のカップが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

「いらっしゃいませー!」
後輩の声が戻り、行列がまた動き出す。
私たちは手を動かし続けた。
日が傾くにつれ、氷の音が減り、温かいカップが増える。夕方の四時を回ったところで、初めて「ホット」が列の多数派になった。

片付けの頃、空はやっと秋の色になっていた。
西の端が薄く桃色で、東の端が早い群青。
テントの骨組みに手をかけながら、美奈が息を吐いた。

「季節、来たね」
「うん。遅れて、でもちゃんと」
「呼んだわけじゃないんだろうけど……」
「でも、呼び方を覚えた気はする」

彼女は笑って、輪ゴムで束ねた髪をほどいた。
汗でまとわりついた髪が肩に落ちる。
その仕草に、私はやっとこの夏を手放せた。

「打ち上げ、どこ行く?」
「“Sea you”で、秋の影、もう一杯」
「いいね」
「それと、ホットも。灯りの低い席で」

テントを畳み終えた時、北からの風がひときわ強く吹いた。
欅の葉が二、三枚、音を立てて落ちる。
私は顔を上げ、深く息をした。
甘い匂いは薄まり、代わりに乾いた紙のような匂いが鼻を通った。
ポケットの中のチョークの粉が指先に移る。
白い粉は、秋の色によく似ている。

「行こっか」
「うん」

歩き出すと、足音が小さく澄んで聞こえた。
夏の地面は音を飲み込むが、秋の地面は音を返す。
返ってきた音の上を、私たちは並んで歩いた。
止まっていた季節が、ゆっくり動き出す音がした。