10月31日。夕方6時を過ぎると、街はすっかりハロウィンの装いになっていた。
オレンジと紫のライトが交互に点滅し、子どもたちの笑い声が通りに響く。
「トリック・オア・トリート!」
小さな吸血鬼や魔女が紙袋を抱えて駆け回る姿は、見ているだけで心が和む。
七海(ななみ)は、その賑わいの中を一人で歩いていた。
職場を少し早く出て、帰り道にコンビニで限定スイーツでも買おうとしただけ。
けれど、思っていた以上に人が多くて、足が止まってしまった。
「みんな、楽しそうだなぁ」
口に出した独り言が、冷たい空気に溶けて消える。
学生の頃、友人たちと仮装して街を歩いたのを思い出す。
写真を撮って、笑って、甘いドリンクを飲んで。
あれから何年も経ったのに、あの夜のオレンジ色の光景だけは、妙に鮮明に記憶に残っていた。
ふと、道端のベンチに小さな魔女帽子が落ちているのが目に入った。
拾い上げると、手のひらサイズの帽子には「まおちゃん」と名前が書かれている。
「あ、もしかしてさっきのちっちゃい子の……?」
あたりを見渡すと、キャンディを持った女の子が母親と一緒に探し物をしていた。
七海は急いで駆け寄る。
「もしかして、これ探してた?」
帽子を差し出すと、女の子の顔がぱっと明るくなる。
「うん!ありがとうお姉ちゃん!」
母親も笑顔で会釈し、「助かりました」と丁寧に頭を下げた。
その瞬間、七海の胸の奥にぽっと小さな灯りがともった気がした。
まおちゃんが帽子を被り直し、母親の手をぎゅっと握る。
「いこ、まま!キャンディもらいに!」
はしゃぎながら走っていく親子の背中を、七海はいつまでも目で追っていた。
「……なんか、いいな」
そう呟くと、近くの店から漂ってくる焼き菓子の匂いに気づいた。
ショーウィンドウには「ハロウィンクッキーセット」の文字。
気づけば七海は店のドアを開けていた。
店内はやわらかいオレンジの明かりに包まれていて、スピーカーから静かなジャズが流れている。
カウンター越しに、黒い猫耳をつけた店員が笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃいませ!ハロウィン限定、かぼちゃのクッキーはいかがですか?」
「じゃあ、それをひとつください」
「ありがとうございます!おまけで飴もどうぞ」
渡されたクッキーの袋には、小さなリボンと「Have a sweet night.」のタグ。
その英語を見て、七海は思わず笑ってしまった。
なんでもない言葉なのに、まるで“今日は甘くていい夜にしてね”と語りかけられた気がした。
外に出ると、通りはすっかり夜の色。
月は雲の切れ間から顔を出し、提灯の明かりが風に揺れている。
さっきの親子の笑い声はもう遠く、代わりに青年たちの楽しそうな声が響く。
仮装して写真を撮る人、カフェのテラスでホットドリンクを飲む人。
それぞれの夜が、オレンジの光に包まれていた。
七海は、クッキーの袋を見つめた。
あたたかい光を反射して、包みのビニールがかすかにきらめく。
(あの日も、こんな風にオレンジ色の光の中にいたな……)
彼女は、ひとりで空を見上げた。
風が頬を撫で、髪を少し持ち上げる。
夏の名残を感じるそのぬるさの中に、秋の匂いがほんの少し混じっていた。
それがなんだか嬉しくて、胸がふわっと軽くなる。
「……また来年も、この夜を歩けたらいいな」
七海はそう呟いて、ポケットに手を入れた。
街の灯りはまだ明るく、子どもたちの声がどこか遠くで響いていた。
その音を聞きながら、七海はクッキーをひとつ口に入れる。
ほんのり甘くて、やさしいかぼちゃの味がした。
それだけで、少しだけ世界があたたかくなった気がした。

🎃 END