最終電車のドアが閉まる音が、耳の奥でまだ鳴っていた。
透は部屋に入ると、コートを椅子に掛け、モニタの電源を入れた。
通知欄には、今日も同じ名前が光っている。
⌚ 22:01 月見リラ「ただいま。今日も、ここにいるよ」
待機のコメントがオレンジ色の渦になって流れる。
「おかえり」「きょうもがんばった」「リラ様〜」。
透はいつもの定型を打ちかけて、少しだけ指を止めた。
画面の向こうの彼女は、八月の終わりに新衣装を手に入れてから、笑うたびに小さな星がはじけるようになった。機能追加、というやつ。
それでも、声の奥にひそむ擦れは、機能では隠せない。
《おかえり》
送信ボタンを押す。チャットの海に、透の一行はすぐ紛れた。
それでいい、と透は思う。名前を呼ばれたくてここにいるわけじゃない。
ただ、目の前のちいさなステージに毎晩灯るオレンジ色の光を、見届けたかった。
歌枠が始まった。
初めに彼女が選んだのは、「だいじょうぶ」という言葉が何度も出てくる、流行りのバラード。
二曲目、三曲目。合間のトークは明るい。けれど、笑うたび、吸う息が少しだけ浅い。
コメント欄では「無理しないで」「お水のんで」の定型が増える。
透はキーボードの上に両手を置いたまま、何も打たなかった。
配信の終盤、リラは小声で言った。
「ねえ、きょうは早めにおしまいにするね。録りたい音があるの」
「えらい」「頑張って」「わくわく」の文字が弾ける。
透は、送られてくるスタンプの明るさがいつも少し眩しいと思う。
ウィンドウを閉じ、ヘッドセットを外すと、部屋の空気は急に静かになった。
秋の夜の乾いた匂いが、カーテンの隙間から少しだけ入ってくる。
机の端に置いたノートには、いくつかのメロディが鉛筆で書き留めてある。
透は趣味で曲をつくる。誰かに渡すためではなく、誰かの声のあとに残った空白を、せめて埋めないでおきたいから。
ノートの一番新しいページには、「帰る」という仮題と、四小節のピアノのモチーフ。
彼はそれを、ゆっくりとうち込んでファイルにした。
アップロード先の説明欄には、ただ一行、《自由に使ってください。クレジット不要》と書いた。
その週の金曜、告知が出た。
「月見リラ、無期限のおやすみのおしらせ」
通知のスクリーンショットがタイムラインを流れ、ファン同士のサーバでは「待つ」「戻ってきて」のスタンプが連打された。
透はどこにも何も書かなかった。
代わりに、留めてあったリラの過去のアーカイブを、ひとつ、またひとつと再生した。
彼女が初めて三千人を越えた夜。奇跡みたいに音程がはまった日。
そして、声が枯れて雑談に切り替えた回で、彼女がぽつりと言った言葉。
「『休んでね』って言葉、ほんとうに休んでいいんだって背中押してくれる。
でもね、同時に、休んでる間にぜんぶ置いていかれる気もするの。
こわいの、どっちも」
透はモニタの明かりの中で目を閉じた。
自分が画面の向こうにいても、彼女のこわさは変わらない。
いなくても、変わらない。
それでも、流れてきた文字に救われる夜があることを、透は知っている。
彼自身も、この二年、その光に何度も助けられてきた。
最後の配信は、思ったより淡々と始まった。
サムネには、オレンジ色の紙に黒い手書きの文字で「おわりじゃないよ」とあった。
背景には、リラが初期から使ってきた星空の部屋。
彼女は最初の数分、いつもより早口で喋った。お礼、楽しかったこと、未来の話。
チャットは「待つよ」で埋まり、スパチャが川のように流れる。
「さいごに、一曲だけ歌ってもいい?」
彼女はそう言って、息を吸った。
イントロが流れ始めた時、透の胸がすこし掴まれた。
それは彼が数日前にアップした、あの四小節から始まる小さなピアノの曲だった。
音色も構成も、透のデモと同じ。ただ、上に乗る声が違う。
彼女の声は、ふわりと軽く、ところどころでかすれ、その度に聴く側の呼吸が合わせて浅くなる。
歌詞はなかった。
彼女は鼻歌のように旋律をなぞり、最後の和音の上で、ささやくように言った。
「ただいまって、また言わせてね」
その言葉だけが、リバーブとともに部屋の隅まで届いた。
配信が終わる。
アーカイブは非公開になると告げられていた。
透は机に頬杖をつき、しばらく動けなかった。
ありがとう、と打つことはできる。
でも、伝わらない感謝を無理に届かせるより、今は、静かにしていたかった。
数日後、通販で頼んでいた記念のポストカードが届いた。
封を切ると、厚紙の手触りと新しいインクの匂い。
印刷された文字は活字なのに、角のひとつに小さなインクのにじみがある。
手書きの何かが一度触れたのかもしれない。
透はコルクボードにピンで留め、カードの前に、小さな観葉植物を置いた。
それは、配信の背景にいつも映っていた鉢と、よく似た形をしていた。
冬が来て、春が通り過ぎ、夏の前に雨が長くなった。
透は相変わらず会社と部屋を往復した。
夜は音楽を作り、週末は歩いた。
ときどき、最寄り駅の高架下のライブハウスに寄るようになった。
チケット代は安く、座席には余裕がある。
知らない誰かの歌声が、胸に思いがけない角度で入ってくる瞬間が好きになった。
ある夜、対バンに出た女性シンガーが、MCでこんなことを言った。
「休むの、ぜんぜん怖くないって、嘘だよね。でも、休んだ日にだけ書ける曲ってあると思う」
彼女の声の高さは、リラとは違う。
それでも、透は思った。
声は、器じゃない。
声は、背骨だ。
変わらないで立っているもの。変わってしまうもの。
そのどちらも、歌になる。
一年が過ぎ、秋の初めの週末。
アプリの通知が、小さく震えた。
月見リラ「ひさしぶり。帰ってきました」
透は、少し迷ってから配信を開いた。
新しい立ち絵は、色がすこし落ち着いていた。星は控えめで、代わりに髪に一本の白いリボン。
リラの声は、以前よりすこし低く、よく眠った朝みたいに穏やかだった。
「待っててくれた人、ありがとう。待てなかった人も、ありがとう」
チャットがざわめき、懐かしい名前も、見覚えのない名前も流れていく。
透は「おかえり」とだけ打って、ウィンドウを最小化した。
キッチンでやかんに火をかけ、沸く音を聞きながら、部屋の窓を少し開ける。
外の空気は、夜なのにやわらかい。金木犀の始まりの匂いが、ほんのわずか混ざっている。
戻ってこなくても良かった、と思っていたわけじゃない。
戻ってきてくれて嬉しい、と素直に思う。
それでも、配信が流れている間に、湯が沸くのを待ち、マグカップを温める余裕が、透にはあった。
一年のあいだに増えたのは、たぶん、それだけだ。
机に戻ると、無音で揺れていた画面の中で、リラが笑っていた。
「ねえ、最後に一曲だけ……」
イントロが流れる。
ピアノの、四小節。
透は音量を少し上げ、息を吸い、そして、笑った。
彼女は、あの曲に新しい歌詞を乗せていた。
ただいまって言うたび
きみの部屋に灯りがつくように
おかえりって言葉で
わたしの中にも灯りがともるように
終わりに、彼女は言った。
「あなたの夜が、静かでありますように」
透は、返事を打たなかった。
画面の明かりの手前で、カップを両手で包む。
湯気の向こう、窓の外の低い星が、いつもより近く見えた。
カードの前の小さな観葉植物は、新しい葉をひとつだけ伸ばしている。
声の向こう側は相変わらず遠い。
でも、届かない場所にも、灯るものがある。
配信が終わると、部屋はまた静かになった。
透は椅子の背にコートを掛け、鍵を取り、玄関に向かった。
夜風を吸う。
歩いて五分の角を曲がれば、昼間は気づかないほど小さな花が咲いているはずだ。
香りが強いときも、しないときもある。
それでも、そこにある。
「ただいま」と言える場所は、ひとつじゃない。
透はポケットに手を入れ、ゆっくりと歩き出した。
足音が、秋の地面に軽く返った。
