窓を打つ風の音が、いつもより少しだけ硬く聞こえた。
冷たい空気が部屋の隅に溜まりはじめる、十一月の半ば。
夏用のカーテンの向こう側は、すっかり冬の手前に立った空の色をしている。
仕事帰り、駅から家への道のりは、朝とまったく違う匂いに包まれていた。
乾いた枯れ葉の香り、遠くで焚かれている落ち葉の煙の匂い。
そして、吐く息の白さが自分の歩幅に寄り添うように漂う。
「……急に寒くなったな」
独り言が白い息に混ざって夜空に溶けた。
アパートの前に着くころ、
街灯の下に誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
通りかかったとき、その人がふっと顔を上げる。
見覚えのある横顔だった。
「……あれ、佐伯さん?」
同じアパートに住む女性。
挨拶を交わす程度の関係だったが、いつも凛とした表情の人だった。
その彼女は、今日は少しだけ肩を震わせているように見える。
「こんばんは。……寒いですね」
無理に笑ったような声だった。
足元を見ると、小さな金属の鍵が落ちている。
佐伯さんはそれを拾い上げ、胸の前でぎゅっと握った。
「帰ってきたら……鍵が、回らなくて。大家さんにも電話したんですけど、繋がらなくて……」
鍵を握る手が小さく震えていた。
寒さのせいだけではないように見えた。
「少し中で温まりませんか? うち、すぐそこですし」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
佐伯さんは一瞬迷ったように目を泳がせたが、やがて小さく頷いた。
部屋に入ると、冬の入口独特の冷気がまとわりつくように感じた。
暖房をつけ、湯を沸かし、二つのマグカップに温かい紅茶を注ぐ。
「ありがとうございます……助かりました」
マグを抱える彼女の指は、まだ少し冷たかった。
部屋の静けさに溶ける湯気が、ふわりと柔らかく揺れる。
「さっき、外で震えてましたよね。大丈夫ですか?」
尋ねると、佐伯さんはしばらく言葉を選ぶように俯いた。
「……急に季節が変わったせい、かもしれません」
「え?」
「毎年、秋が終わって冬に入ると……なんだか気持ちが追いつかなくなるんです。
誰かに置いていかれたみたいな気持ちになるというか……
ちょっとしたことで不安になってしまって」
吐息に混じる弱さは、彼女自身も持て余しているような脆さだった。
「今日も鍵が回らなかっただけなんですけど……
それで急に、何もかもダメな気がしてしまって」
そう言って、苦笑を浮かべた。
紅茶の湯気がほんのり頬を温める頃、
彼女の肩の力がゆっくりほどけていくのが分かった。
「冬って、静かだから余計に不安が響くんですよね。
でも、今日みたいに誰かと言葉を交わせるだけで、少し楽になります」
その言葉が部屋の空気に溶け、静かに灯りをともした。
湯気の色が薄れていき、部屋の隅の冷たさがまたゆっくり戻ってくる。
その気配を感じながら、佐伯さんは立ち上がった。
「もう一度鍵、試してみます」
玄関まで一緒に行くと、彼女は深く呼吸をして鍵を差し込んだ。
……ガチャリ。
さっきまで嘘のように、あっさりと回った。
佐伯さんは目を丸くし、次にふっと微笑んだ。
「さっき震えてたの、寒さだけじゃなかったんだと思います。
今は……なんだか、平気です」
街灯の光が、彼女の顔をやわらかく照らした。
冬の入口にだけ現れる、澄んだ夜の光だった。
「今日は、本当にありがとうございました。
あの……よければまた、紅茶をご馳走してください」
「もちろん。いつでも」
彼女はほっとした表情で自分の部屋へ戻っていった。
玄関の前に残った冷たい空気を吸い込むと、
いつもよりほんの少しだけ、白い息があたたかく感じられた。
季節が冬へと移り変わるとき、
人の心もまた、ほんの少しだけ形を変えていく。
その変化が、誰かとのささやかな時間によって
そっと支えられていることに気づいた夜だった。
