最初にそれを見たのは、街灯の光がぼんやり滲む雪の夜だった。
残業帰りの道は、いつもより静かだった。吐く息が白い。耳の奥がきゅっと縮まるような冷え。
けれど、道の向こう側にふ、と柔らかい光が浮かんだ。
――いや、光ではない。
薄い金色をまとった、小さな舟のようなものだった。
舟は、雪の上から浮かび上がっているように見えた。人が乗れるほどの大きさではなく、両手で抱えられるくらいの、小さな、小さな舟。
なのに、雪の降る夜気を押して、こちらへ向かってゆっくり進んできていた。
「……幻覚か?」
思わずつぶやく。
でも、舟はちゃんと雪を照らし、影を落としていた。
風もないのに、舟の縁についた細い金の紐が、かすかに揺れている。
近づくと、舟の内側に紙のようなものが積まれているのが見えた。
白い紙。いや――メッセージカードのようにも見える。
舟は、まるで「どうぞ」と言うように、足元で静かに止まった。
恐る恐る手を伸ばすと、冷たくない。
雪の夜にあるはずのない、かすかなぬくもりすら感じる。
1枚、紙を手にとった。
そこには、丸っこい文字でこう書かれていた。
『帰り道、寒かったでしょう。風邪ひかないように。』
胸が、ふっと熱を持った。
見覚えがあった。その字は、五年前に亡くなった祖母の字にそっくりだった。
「……こんなことって」
声が震えた。
けれど、紙は雪の夜に溶けず、しっかりと残っている。
舟の中には、まだ何枚も紙が入っていた。
手に取ると、どれも短い言葉ばかり。
『働きすぎてない?』
『ちゃんと温かいもの食べなさい』
『あなたの帰り道が少しでも明るくなりますように』
――全部、祖母が生前、よく口にしていた言葉。
雪がしんしんと降り続ける中、舟の光だけがぽうっと滲んで、胸の奥の固い部分を少しずつ溶かしていくようだった。
ふと、最後の一枚にふれてみる。
その紙だけ、封筒に入っていた。
震える指で開くと、たった一行だけ。
『会えなくても、あなたの毎日に手紙を届けています。』
目の奥が熱くなる。
祖母のことを思い出すと泣きそうになるからと、避けてしまっていた記憶。
でも、こんな夜に不意に差し出された言葉は、ただただ優しく胸に沁みた。
気づけば、舟は静かに揺れていた。
まるで「もう行くね」と言うように。
「……ありがとう」
小さく呟くと、舟はするりと空気にとけるように浮かび上がった。
雪の舞う空へ、ゆっくり、ゆっくり昇っていく。
金の光の尾を引きながら、どこか遠くへ帰っていくようだった。
その光が見えなくなるまで、ずっと立ち尽くしていた。
雪の音しかしない夜道で、胸の奥にぽつりと灯りがともった気がした。
それは、冬の夜空に浮かんだ、小さな小さな「舟」の残した光。
触れた指先にも、まだ少しだけ温度が残っていた。
