朝の空気は、まだ冬の端っこにあった。
吐く息が白くなるほどではないけれど、指先はじんわりと冷たい。
駅から学校までの道を歩きながら、彼は何度もポケットの中で拳を握り直した。
合格発表の日。
それ以上でも、それ以下でもない一日なのに、
足音だけがやけに大きく感じられる。
校門の前には、すでに人が集まっていた。
制服の子も、私服の子も、親と一緒の子もいる。
誰かが笑って、誰かが泣いて、誰かが携帯を耳に当てている。
彼は、少し離れたところで立ち止まった。
掲示板の前に近づくのが、怖かったわけじゃない。
でも、近づいてしまえば、
「知らなかった自分」には戻れない気がした。
昨日の夜、机の上に置かれていた一枚の紙を思い出す。
折り目のついた、小さなメモ。
――今日は、もう十分だよ。
あの字は、誰のものだったのだろう。
考えても答えは出ないのに、
あの言葉だけは、確かに彼の中に残っていた。
深く一度、息を吸う。
冷たい空気が肺に入って、少しだけ頭が冴える。
彼は、掲示板の前へ進んだ。
名前の列は、思っていたよりも多かった。
数字と漢字の海の中で、視線が泳ぐ。
一行ずつ、上から下へ。
見慣れた字面なのに、今日はどれも他人の名前みたいだった。
心臓が、どくん、と音を立てる。
――あった。
自分の番号。
確かにそこにあって、間違いなく並んでいる。
嬉しさは、すぐには来なかった。
代わりに、ふっと力が抜けるような感覚があった。
肩の奥に溜まっていた何かが、静かにほどけていく。
周りの音が、少し遅れて戻ってくる。
歓声、嗚咽、拍手、誰かの名前を呼ぶ声。
彼は、掲示板から一歩下がった。
ポケットの中に手を入れると、
昨日と同じように、指先が何かに触れた。
小さな紙切れ。
今朝、家を出るときにはなかったはずのもの。
そっと開く。
――今年も、ちゃんと始まっているよ。
文字は、あの夜と同じだった。
でも、今度は少しだけ、線がやわらかく見えた。
彼は空を見上げる。
冬の光が、雲の隙間から落ちてくる。
冷たいのに、どこか明るい。
「……うん」
誰にともなく、そう呟いた。
この先も、きっと不安はある。
迷うことも、立ち止まることもあるだろう。
それでも――
今はただ、この朝を受け取ればいい。
そう思えたことが、
彼にとっての最初の「合格」だった。
