二月十三日の夜は、いつもより少しだけ静かだった。
窓の外で風が鳴っているのに、部屋の中は驚くほど音がない。
机の上には、きれいに包まれた小さな箱。
赤でもピンクでもない、落ち着いた色の包装紙。
リボンは何度も結び直して、少し歪んでいる。
——これ、渡すんだよね。
心の中でそう言うたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。
作っているときは、あんなに楽しかったのに。
溶かして、混ぜて、少し味見して。
その時間は、全部“好き”で満ちていた。
でも、完成してしまうと別だ。
渡したら、
今までと同じ距離ではいられなくなるかもしれない。
笑って話すだけの関係が、壊れるかもしれない。
それでも——
バッグに入れてしまった。
ファスナーを閉める音が、やけに大きく響く。
まるで、中で何かが動いたみたいに。
*
翌朝、空気は冷たかった。
コートの中にマフラーを巻いても、首元が少し心許ない。
駅までの道を歩きながら、
彼女は何度もバッグの中を意識していた。
歩くたびに、
小さな箱が、確かにそこにあることを主張する。
——心臓、もう一個あるみたい。
そう思って、ひとりで苦笑する。
改札を抜けると、彼がいた。
いつもと同じ場所。
スマホを見ながら、少しだけ猫背。
それだけで、胸が跳ねる。
「おはよう」
声をかけると、
彼は顔を上げて、少し驚いたように笑った。
「おはよう。早いね」
その“いつも通り”が、今日はやけに眩しい。
一緒に歩き出す。
並んだ肩と肩の距離が、ほんの少しだけ近い気がする。
信号待ちで立ち止まったとき、
彼がふいに言った。
「今日、寒いね」
「うん……でも、もうすぐ春だよ」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
ただ、今この瞬間を、引き延ばしたかった。
青に変わる。
歩き出す。
角を曲がったところで、
いつもは別れる場所に差しかかった。
心臓が、耳の裏で鳴る。
——今だ。
「あの」
声が、少しだけ震えた。
彼が立ち止まって、振り返る。
「なに?」
バッグに手を入れる。
指先が、包装紙に触れる。
一瞬、迷った。
本当に、一瞬だけ。
でも、次の瞬間には、箱を差し出していた。
「……これ。明日、バレンタインだから」
彼は、目を丸くする。
それから、ゆっくりと笑った。
「俺に?」
「……うん」
受け取る手が、彼女の指先に少し触れる。
その一瞬で、全部が報われた気がした。
「ありがとう」
彼は箱を大事そうに持って、
少し照れたように言った。
「今日一日、これが気になって仕事できないかも」
「え……」
「冗談。でも、嬉しい」
その一言で、
胸の奥に溜まっていた緊張が、ふっと溶けた。
空気は冷たいままなのに、
体の内側だけが、じんわり熱い。
「……じゃ、また」
そう言って別れたあと、
彼女は少しだけ足を止めた。
バッグの中は、もう軽い。
でも、心はさっきよりずっと重い。
それが、嫌じゃなかった。
二月の朝の光は、まだ冬の色をしている。
それでも確かに、
春へ向かう途中だった。
