時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
カチ、カチ、と規則正しく刻まれる音が、
机の上の参考書よりも、頭の中に残っている。
もう、やることは全部やった。
そう言い聞かせているのに、視線は自然と机に戻ってしまう。
英単語帳、書き込みだらけのノート、
何度も折り目のついた過去問。
どれも、ここ数か月、
いや、もっと長い時間を一緒に過ごしてきたものだ。
窓の外は、もう真っ暗だった。
街灯の光が、薄くカーテンを照らしている。
冬の夜は静かだ。
遠くで車が一台通り過ぎる音がしても、すぐに吸い込まれていく。
――眠らなきゃ。
そう思うほど、目は冴えていく。
布団に入っても、
今日覚えたことより、
覚えきれなかったことのほうが、次々に浮かんでくる。
間違えた問題。
自信のない分野。
もし、という言葉。
天井を見つめていると、
不意に、コン、と小さな音がした。
机のほうだ。
驚いて起き上がると、
スタンドライトの根元に、何かが転がっていた。
消しゴム……ではない。
小さな紙切れだ。
さっきまで、そこには何もなかったはずなのに。
拾い上げると、折りたたまれたメモだった。
白くて、特別な柄もない。
誰かが部屋に入った気配はない。
家族はもう寝ているはずだ。
胸の奥が、少しだけざわつく。
ゆっくりと、紙を開いた。
そこには、短い言葉が書かれていた。
> 「今日は、もう十分だよ」
それだけ。
励ましとも、命令とも取れない、
でも不思議と、否定されていない感じの言葉。
誰が書いたのかは分からない。
字も、見覚えがあるような、ないような。
しばらく、その紙を見つめていた。
頭の中で、
「まだ足りない」という声と、
「もういい」という声が、静かにせめぎ合う。
けれど、その紙を机に置いた瞬間、
不思議と肩の力が抜けた。
スタンドライトを消す。
部屋が、少しだけ暗くなる。
それでも、完全な闇にはならなかった。
カーテン越しの街灯の光が、
机の輪郭を、ぼんやりと浮かび上がらせている。
布団に戻り、目を閉じる。
さっきまで頭を占領していた不安は、
完全には消えない。
でも、押しつぶされる感じではなくなっていた。
――明日は、明日の自分が行く。
そんな考えが、自然と浮かぶ。
そのまま、いつの間にか眠っていた。
*
目が覚めたのは、アラームが鳴る少し前だった。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
試験当日の朝。
胸の奥が、きゅっと縮む。
でも、昨日ほどではない。
布団から出て、机を見る。
スタンドライトの横に、
昨夜の紙切れが、ちゃんと置かれていた。
夢じゃなかったらしい。
その横に、もう一つ、気づかなかったものがあった。
鉛筆だ。
よく使い込まれていて、
少し短くなった鉛筆。
それは、最初に買った参考書についてきたものだった。
ずっと机の引き出しにしまっていて、
最近は使っていなかったはずなのに。
理由は分からない。
でも、その鉛筆を手に取ると、
不思議と指になじんだ。
制服に着替え、鞄を持つ。
玄関を出ると、冬の空気が、頬を引き締める。
空は高く、
雲も少ない。
駅へ向かう道は、まだ人がまばらだった。
同じような顔をした受験生たちが、
それぞれの速度で歩いている。
誰もが、
不安も期待も、全部抱えたまま。
胸ポケットの中で、
あの紙切れが、かさりと音を立てた。
今日は、きっと大丈夫だ。
そう言い切れるほどの自信はない。
でも、
ここまで来た、という事実だけは確かだった。
改札を抜ける前、
ふと空を見上げる。
冬の朝の光は、冷たい。
けれど、その中に、
確かに“始まり”の色が混じっていた。
彼は、深く息を吸い、
そのまま前を向いた。
灯りは、もう背中にある。
